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作業場の横を流れる小川の辺に佇み、水を眺める。水の不定型な姿が好きだ。二度と現れることのない連続した形に、心を奪われ、
ことばを探す。水は実に生々しい。冬から春にかけて、水の表情も変わる。水がやわらかくなったとでもいえばよいのだろうか。艶が出てくる。水からの贈り物、それがことば。そのことばは濡れている。さて、濡れた水とはと尋ねられても、即座には答えることは
できない。ただ、こうは云える、無味乾燥な死んだことばとは異なり、断片的ではなく、まさに瑞々しさにあふれている。
ところで、作品の制作時に迷うことがある。迷うことばかりといっても良い。そんなとき濡れた水のことばを聞く。いつも、それ以前との作品とのかかわり、連鎖のなかで表現がなされていく。
表現、つまり虚構として生産できなかったこと、あるいは表現を回避、断念した想いや光景といったものとあらためて付き合い、そのなかから作品の種が生まれ、制作が始まる。濡れた水のことばは、そんな想いに、いつも寄り添ってくれる。表現の作用因のひとつと言える。
荒れ狂う水からのメッセージが届いたその日から、容易に作品に向かうことができなかった。そんな日々も水辺に佇み、幾日も流れる水に心を任せていた。次第に日常が形を変えて、ゆっくりと身体にひろがっていった。ようやく作品に取りかかることができるようになった。水のことばが優しく身体を包んでくれた。断片の集積が
襲ってくるような感覚から、抜け出すことができた。
個展に『濡れた水のことば』とつけたのは、水と過ごすことで、濡れた水のことばを聞くことで生まれた作品群であるということを、特に覚えておきたかった故である。ただ、水辺では、いつも水と風が戯れていたことを追記しておこう。
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